修善寺温泉がある伊豆市は、"修善寺町(修善寺温泉郷)・土肥町(土肥温泉郷)・天城湯ヶ島町(天城湯ヶ島温泉郷)・中伊豆町(中伊豆温泉郷)"の4町が2004年に合併し誕生しました。市としての歴史は浅いですが、個々の町の歴史はとても古いものです。
桂川沿いの細長い谷に旅館などが立ち並ぶ修善寺温泉は、開湯1200年の歴史をもつ温泉街です。町の中心には弘法大師が湧出させたと言われる"独鈷の湯"(右写真)があり、すぐ近くには町名の由来でもある"修禅寺"や源氏ゆかりの史跡など、歴史にふれられるスポットも多く点在しています。
また文学との繋がりも強く、"岡本綺堂、夏目漱石、吉田絃二郎、高浜虚子、尾崎紅葉、中村吉右衛門"という文人・歌人が修善寺に関する、句や戯曲などを残しています。
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修禅寺"は修善寺温泉発祥の寺として有名。
平安初期の大同2年(807年)に弘法大師が開基したもので、当時は地名が桂谷と呼ばれていたことから"桂谷山寺"といわれ、伊豆国禅院一千束に記されたほど格式の高い寺であった。
その後、鎌倉時代初期に修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになった。また、源頼朝の弟の源範頼と、その息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が当寺に幽閉され、その後この地で殺害されたとしても知られている。
建長年間(1250年頃)に蘭溪道隆が来住し、それに伴い"臨済宗"に改宗、桂谷の風致が支那の廬山に似ているところから当時は肖廬山と称した。
南北朝時代の康安元年(1361年)になって畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、応永9年(1402年)には大火災にあい、永徳元年(1489年)に至り、韮山城主の北条早雲が外護者として再興し、叔父の隆溪繁紹(遠州石雲院)が曹洞宗に寺院として再興させ、現在に至っている。
岡本綺堂(おかもと きどう)[1872~1939]
「修禅寺物語」は修善寺を舞台にした岡本綺堂の戯曲で、最大の傑作と言われている。
明治44年1月号「文芸倶楽部」に発表、同年5月に明治座で、二世市川左団次の夜叉王を主役に初演された。修禅寺に残る古面の興感と、金剛右京の能面にまつわる伝説に取材したといわれる新歌舞伎の代表的作品の一つである。
夏目漱石(なつめそうせき)[1867~1916]
明治43年8月6日日、漱石は病気療養のため修善寺温泉菊屋旅館に滞在する。修善寺への転地療養に期待したが病状は悪化の一途を辿り、8月24日危篤状態に陥る。これが世にいう"修善寺の大患"であるが、9月も初旬になると少しずつ快方に向い、10月には帰京できるまでに回復する。この修善寺における大患が漱石の心に転機をもたらし、以後の作品に大きな影響を与えたといわれている。
代表作「吾輩は猫である」「こゝろ」などがある。
吉田絃二郎(よしだ げんじろう)[1886~1956]
修善寺から大仁行きの馬車は互いに「さようなら」「御機嫌克う」と挨拶が交わされて鈴を鳴らしながら出発する。・・・・・
吉田絃二郎の作品の中には修善寺を記したものが少なくないが「修善寺行」(小鳥の来る日)もそのひとつである。
旅を愛し、修善寺の山や川に親しみ、大正5年頃から昭和31年に他界するまで毎年長逗留することが多く、この地をこよなく愛した作家である。妻明枝が昭和12年42歳で早逝したとき、修善寺を一望できる塔の峯の山腹に遺骨を埋葬し、修善寺小学校に吉田文庫を寄贈した。絃二郎も70歳でその生涯をとじ、その分骨は長葬の礼をもって鹿山の墓所に妻明枝とともに眠っている。
修善寺特産・黒米
修禅寺奥の院の周辺で作られている古代米。白米を炊くときに少量加えると紫色になり、風味や粘りがまします。
「だるま山高原・レストハウス」では黒米のソフトクリームを販売している。

天城の名品・わさび
天城連峰の豊富な水は温度変化が少ないので、育つわさびは品質面でも全国屈指。
わさびを使ったご当地品には「わさびソフトクリーム」、「わさび酎・わさびワイン」などがある。

土肥の名産・白枇杷
土肥の白枇杷は果肉が白く糖度も高く、甘味酸味のバランスがいい。枇杷の中でもこの風味のよさに匹敵するものはないと言われている。

いのしし料理
天城の代表的な郷土料理である猪鍋や猪コロッケなどがうまい。猪の肉は低脂肪、低カロリー、コラーゲンたっぷりである。

肉厚椎茸
伊豆市の椎茸は肉厚で味・香りともによい。殊に乾し岳は全国の品評会で常に上位入賞を果たしている、上質な椎茸として評価が高い。

大見とうふ
中伊豆産大豆をたっぷり使い、天城産の清流と駿河湾産のにがりなどの地元の材料で作られるとうふは、まろやかで濃厚な味わいである。他にも豆乳・ゆばなどがある。

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